バーベキューと聞いて、多くの人が思い浮かべる光景って、たぶん似ているんですよね。網の上で肉がじゅうじゅう鳴っていて、誰かがトングを握って、焦げないように、生焼けにならないように、ずっとそこに立っている。煙が目にしみて、少し顔をそむけながら、それでも網から離れられない。楽しいんだけれど、気づけば自分だけがずっと焼き役で、輪の会話に入れていない。そんな経験、心当たりがある方も多いんじゃないでしょうか。

夕方の河原や公園を思い浮かべてみてください。あちこちから煙が細く立ちのぼって、香ばしいにおいが風に乗って流れてくる。笑い声も聞こえてくる。でもその煙の根元をよく見ると、たいてい一人か二人、網の前に張りついている人がいます。みんなが乾杯している輪から少しだけ外れた場所で、黙々とトングを動かしている。あの光景は、日本の屋外の食卓に驚くほど深く染みついているように思うんです。

この「離れられない」という感覚は、実は日本のバーベキューがたどってきた歴史とけっこう深くつながっているんです。今日は技術の話ではなくて、なぜ日本では長いあいだ「蓋を閉める」という発想が根づかなかったのかを、道具をめぐる文化史として、隣で話すくらいの温度でたどってみたいなと思います。

日本のバーベキューは、ずっと「網と炭」だった

振り返ってみると、私たちが親しんできた屋外の焼きものって、その多くが焼肉の延長線上にあったように思うんですよね。七輪があって、網があって、炭火があって、そこに肉や野菜をのせて、焼けたそばから食べていく。直火で表面をあぶり、香ばしさを立ち上げる。この様式そのものは、とてもおいしいし、日本人の食卓にしっくりなじんできました。焼けた端から口に運ぶあの一体感は、たしかに直火ならではの喜びです。

ただ、この「網と炭」のスタイルには、構造的にひとつの宿命があります。火と食材のあいだに、蓋がないということです。蓋がないと、熱は上へ逃げていきます。だから火力を保つには炭に近づける必要があって、近づければ表面はすぐ焦げる。焦がさないように動かし続ける。裏返す、位置を変える、火から遠ざける。つまり、ずっと手をかけていないと成立しない焼き方なんですよね。

個人的には、ここに日本のバーベキューの原風景があると思っています。焼き手はその場を離れられない。目を離した瞬間に黒こげになるから。おいしく焼くこと自体が、その人の集中と時間を丸ごと奪ってしまう。だから「面倒なわりに、思ったほどおいしくない」という、あの独特のあきらめが生まれてきたのかなと感じています。準備も片づけも大変で、なのに一番がんばった人が一番楽しめていない。そんなちぐはぐさが、どこかにずっとあった気がするんです。

蓋がやってくると、火は「対流」に変わる

ここに、蓋付きのグリルという道具が入ってくると、景色がずいぶん変わります。蓋を閉めると、熱は上に逃げずにグリルの中をぐるりと回り始めます。直火であぶるのではなく、あたためた空気全体で包んでいく。オーブンに近い状態が、屋外にできあがるわけです。

この違いはとても大きいんです。表面を直接焦がす焼き方から、こもった熱でじっくり火を通す焼き方へ。食材の水分は保たれ、火の当たりはやわらかくなり、そして何よりつきっきりでいる必要がなくなる。蓋を閉めているあいだ、食材は勝手に、でも確実においしくなっていってくれます。焼き手が汗をかいて操作する時間は、火と空気が代わりに引き受けてくれるようになる。

アメリカのバーベキューが何時間もかけて塊肉を育てられるのは、この「蓋を閉めて間接的な熱でゆっくり火を入れる」というロジックがあるからなんですよね。私たちYORON BBQも、この道具としての知恵はまるごと受け継いでいます。ただ、十二時間かけて一晩じゅう火の番をするスタイルは、そのまま日本の暮らしには根づかない。だから五〜六時間ですべてが完結するかたちに翻訳しました。そのあたりの考え方は私たちの思想のページにも書いています。

なぜ、蓋は日本に入ってこなかったのか

これだけ便利なら、もっと早く広まってもよさそうなものですよね。でも長いあいだ、日本の屋外では蓋付きグリルはほとんど見かけませんでした。雨の日の公園でも、まわりはたいてい網の焼肉スタイルで、蓋付きのグリルを持ち込んでいる人はまずいなかったりします。

理由はいくつか重なっていると思うんです。ひとつは、そもそも直火で網焼きする様式が、焼肉という強い食文化としてすでに完成していたこと。わざわざ別の道具を持ち出す動機が生まれにくかったんですよね。すでに満ち足りている場所には、新しい道具の入り込む隙間がなかなかできません。もうひとつは、屋外の場所の制約です。無料の広場には広場しかなくて、道具はすべて持参が前提。設備の整ったグランピング施設にはたいていガスグリルがあって、それはそれで快適なんですが、蓋を閉めて炭でじっくり、という体験とはまた少し違う。「蓋を閉める」という選択肢に、そもそも出会う場所が少なかったんです。

そしてたぶん、いちばん大きかったのは意識の部分です。焼くというのは手をかけ続けるものだ、つきっきりでいるのが焼き手の甲斐性だ——そういう感覚が、私たちのなかにけっこう深く刷り込まれていたんじゃないかなと思います。蓋を閉めて食材から離れることは、どこか手を抜いているように感じてしまう。まじめな人ほど、火の前に立ち続けてしまう。だから蓋という道具そのものより、蓋を閉めていいという許可のほうが、日本には届いていなかったのかもしれません。

蓋が持ち込んだのは、技術ではなく「自由」だった

そう考えると、蓋付きグリルが本当に持ち込んだものは、おいしく焼く技術というより、もっと別のものだったんじゃないかと思うんですよね。それは、その場を離れてもいい、という自由です。

蓋を閉めているあいだ、焼き手は網の前に縛られません。飲みものを取りに行けるし、椅子に座って輪に加われるし、久しぶりに会った人とちゃんと目を見て話せる。焼くという作業が、その人を独りにしなくなる。私たちがバーベキューで本当に届けたいのは、実は「おいしい」のもう一歩先にある、場の空気が変わるあの感覚なんです。会話がはずむのも、会話がなくても居心地がいいのも、誰も焼き役として犠牲になっていないからこそ成り立ちます。

蓋を閉めるというのは、火を信じることであり、同時に、自分がその場の一員に戻ることでもある。

蓋は、火のふるまいを変える道具であると同時に、人の立ち位置を変える道具でもあった。網の前から一歩離れて、輪のなかへ戻れるようにしてくれた。日本に根づかなかったのは、単に道具が普及していなかったからというより、この「離れていい」という自由に、私たちがまだ慣れていなかったからなのかもしれません。道具は輸入できても、それを使いこなす心の余白は、少しずつ育てていくしかないものなのだと思います。

今日からできる、小さな一歩

もし手元に蓋付きのグリルがあるなら、今度のバーベキューでひとつだけ試してみてほしいことがあります。食材をのせて蓋を閉めたら、思いきってその場を三分だけ離れてみることです。誰かの隣に座って、一杯飲みながら話す。網の前に立ち続けたくなる気持ちをぐっとこらえて、火に少しだけ任せてみる。最初はそわそわするかもしれません。でも、その落ち着かなさこそ、私たちが長いあいだ抱えてきた「離れられなさ」の正体なのだと思います。

戻ってきたとき、食材はちゃんとおいしくなっているはずです。そしてたぶん、あなた自身がその三分のあいだに交わした会話のほうを、あとになってよく覚えているんじゃないかなと思います。蓋を閉めるというのは、火を信じることであり、同時に、自分がその場の一員に戻ることでもあるんですよね。焼き役という役割から解放されたとき、はじめてその人も「参加者」になれる。

YORON BBQでは、月に一度、誰でも手ぶらで参加できるオープンな会を開いています。蓋を閉めて火から離れる、あの少し不思議な自由さを、よかったら一度いっしょに味わいにきてください。次回の開催案内で、そっとお待ちしています。